がんを防ぐ仕組みが精子の運動にも関与する? ―精子に必須の酵素VSPを脂質が制御するメカニズム―

    調査・報告
    2025年8月22日 14:00
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    図1 VSPの構造と機能
    図1 VSPの構造と機能

    VSPは電位依存性イオンチャネルに共通する電位センサーと、PTENに似た酵素部位から構成され、イノシトールリン脂質PI(4,5)P2を分解する酵素活性を示す。

    大阪大学大学院医学系研究科の水谷夏希特任助教(常勤)(研究当時)、岡村康司教授(統合生理学)と近畿大学先端技術総合研究所高圧力蛋白質研究センターの米澤康滋教授および大阪大学蛋白質研究所の中川敦史教授(超分子構造解析学)の共同研究グループは、精子の運動機能に必須の電位依存性ホスファターゼ(VSP)という酵素分子が、イノシトールリン脂質PI(4,5)P2によって機能制御されるメカニズムを明らかにしました。このメカニズムは、がん化を防ぐ働きを持つ酵素PTENの制御メカニズムと共通であることが分かりました。
    VSPは2005年に研究グループによって発見された分子で、細胞膜の電位変化を感知する電位センサーとPTENに似た酵素部位が接続されています(図1)。この酵素の機能が精子の運動制御において重要であることはこれまで明らかにされてきましたが、その機能がどのようにして調節されるかについては解明されていませんでした。
    今回、研究グループは、VSPに組み込んだAnap[3-(6-acetylnaphthalen-2-ylamino)-2-aminopropanoic acid]という蛍光を発する人工アミノ酸の蛍光強度の変化を調べることにより、電位センサーと酵素部位をつなぐリンカー部にPI(4,5)P2が相互作用することを明らかにしました(図2A)。そして、分子動力学シミュレーションの結果と併せて、この相互作用がVSPの酵素のはたらきを制御していることを解明しました。これにより、PTENの酵素活性を調節する仕組みや未だ謎の多い精子の動態の理解が進むことが期待されます。
    本研究成果は、米国科学誌「米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America、PNAS)」に、7月29日(火)4時(日本時間)に公開されました。

    【研究成果のポイント】
    ●精子運動能を司る酵素、電位依存性ホスファターゼ(VSP)※1 の機能がイノシトールリン脂質PI(4,5)P2※2 によって適切に調節されるメカニズムを解明
    ●VSPの機能が精子の運動制御に重要であることは明らかにされてきたが、その機能がどのようにして調節されるかについては解明されていなかった。今回、蛍光色素を用いた実験とシミュレーションの合わせ技により、PI(4,5)P2とVSPのリンカーとの相互作用の証明に成功
    ●VSPと類似の酵素部位を持つがん抑制酵素PTEN※3 の機能を操作する技術や、精子の動態の理解による男性不妊の治療法の開発への貢献に期待

    【岡村康司教授のコメント】
    VSPは20年ほど前に海産無脊椎動物のホヤのゲノム情報から偶然見出された分子で、ここ数年で精子での生理機能がようやく明らかにされてきました。これまでがん抑制遺伝子として有名なタンパク質PTENとの類似性が知られてきましたが、今回、PTENで知られるリン脂質分子による調節機構が精子で機能するVSPでも使われていることが分かりました。一週間もかけて成熟していく精子で、どのように膜電位化学シグナル連関が持続できるかというこれまでの謎に、答えることができました。

    【研究の背景】
    全ての生物において、複雑かつ高度な生命現象の源になっている電気信号(細胞膜の電位変化)は、電位依存性イオンチャネル※4 というタンパク質分子によって感知され、イオンの流れに変換されることが知られてきました(図1)。一方、研究グループが発見したVSPは、電気信号をPTENに似た酵素のはたらきに変換するまったく新しいタンパク質分子であり、マウスを用いた研究から精子の運動機能の制御に重要な役割を果たしていることが明らかになっていました。(精子が持つ「電気」を感じる特殊な仕組みを解明:https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2019/20191129_2、未成熟段階の精子が、精子運動能の鍵を握る: https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2024/20240903_1
    研究グループではこれまで、このような興味深い機能が、電位センサーと酵素部位の直接相互作用によって生み出されることを報告してきました。(遂に解明!精子に必須のタンパク質VSPのメカニズム:https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2022/20220623_1
    しかしながら、VSPの機能を適切に制御するメカニズムは明らかではありませんでした。

    【研究の内容】
    研究グループでは、PI(4,5)P2と相互作用すると蛍光強度が変化するAnapの特性を利用し、電位センサーと酵素部位をつなぐリンカー部にPI(4,5)P2が相互作用することを発見しました。VSPが分解する「基質のPI(4,5)P2」の影響を排除できる変異体でもこの蛍光強度変化は観察されたため、「基質とは別のPI(4,5)P2分子」とリンカー部との相互作用が明らかになり、このことは分子動力学シミュレーションによっても再現されました。相互作用が起きない場合は電気信号が化学信号に変換されなかったことから、PI(4,5)P2がVSPの機能を制御していることが示されました(図2A)。
    これらの発見から、PI(4,5)P2が精子におけるVSPの機能を適切な範囲内に調節することで、運動能が制御されていると考えられます。一方、PI(4,5)P2は同様の相互作用によりPTENのはたらきをも調節していることが知られており、その結果、がん化(細胞の過剰増殖)が抑制されていると考えられています(図2B)。

    図2 PI(4,5)P2によるVSPとPTENの制御メカニズム
    図2 PI(4,5)P2によるVSPとPTENの制御メカニズム

    A:電位センサーと酵素部位をつなぐリンカー部にPI(4,5)P2が相互作用し、VSPの機能が調節される。これによって精子の運動制御が行われると考えられる。
    B:同様の相互作用はPTENの機能調節でも見られ、がん化の抑制につながると考えられる。

    【本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)】
    本研究成果により、PTENの酵素活性制御のメカニズムや精子の動態への理解が進み、将来的にはPTENの制御によるがんの治療法や男性不妊の治療法の開発に貢献できると考えられます。また、種々の神経疾患や心疾患などに関連するタンパク質である電位依存性イオンチャネルはVSPと共通の電位センサーを持つため、電気信号がイオンの流れに変換されるメカニズムを理解する上で本研究は重要な成果です。

    【特記事項】
    本研究成果は、2025年7月29日(火)4時(日本時間)に米国科学誌「Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America(PNAS)」(オンライン)に掲載されました。
    タイトル:"Nonsubstrate PI(4,5)P2 interacts with the interdomain linker
           to control electrochemical coupling in voltage-sensing phosphatase(VSP)"
    著者名 :Natsuki Mizutani1,2,3,6,*, Yasushige Yonezawa4,
         Atsushi Nakagawa2, and Yasushi Okamura1,5,*(*責任著者)
    所属  :1.大阪大学 大学院医学系研究科 統合生理学
         2.大阪大学 蛋白質研究所
         3.日本学術振興会特別研究員-PD
         4.近畿大学 先端技術総合研究所 高圧力蛋白質研究センター
         5.大阪大学 大学院生命機能研究科
         6.現所属:自治医科大学 医学部 生理学講座 統合生理学部門
    DOI   :https://doi.org/10.1073/pnas.2500651122

    本研究は、日本学術振興会科研費 JP23K19351(水谷夏希)、JP21H02444(中川敦史)、JP22H02804、JP23K24066(岡村康司)、日本学術振興会特別研究員奨励費 JP24KJ0146(水谷夏希)、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)CREST JPMJCR14M3(中川敦史)、文部科学省科研費 JP20H05791(岡村康司)、公益財団法人吉田科学技術財団(水谷夏希)、および公益財団法人三菱財団(岡村康司)の助成を受けて行われました。

    【用語説明】
    ※1:電位依存性ホスファターゼ(VSP)
    細胞膜電位変化を感知する電位センサーとPTENに類似の酵素部位から構成される膜タンパク質分子。膜電位の脱分極に反応してイノシトールリン脂質PI(4,5)P2を主に脱リン酸化する酵素のはたらき(ホスファターゼ活性)を示す。

    ※2:イノシトールリン脂質PI(4,5)P2
    細胞膜を構成する脂質の一種。イノシトールリン脂質は脂肪酸とイノシトール環から構成され、イノシトール環のリン酸化される部位とその数によって異なる名称と機能を有する。PI(4,5)P2はイノシトール環の4位と5位がリン酸化されている。

    ※3:がん抑制酵素PTEN
    細胞の過剰な増殖(がん化)を防ぐ働きを持つ酵素。ヒト悪性腫瘍においてPTENをコードする遺伝子の変異や欠損が高頻度に認められていることから、がんの発生や進行に関与すると考えられている。

    ※4:電位依存性イオンチャネル
    細胞膜電位の変化を感知する電位センサーとイオンの通り道であるポアドメインから構成される膜タンパク質分子。ナトリウムイオンを選択的に通すナトリウムチャネルやカリウムイオンを選択的に通すカリウムチャネルなど様々な種類が存在する。

    【関連リンク】
    先端技術総合研究所 教授 米澤康滋(ヨネザワヤスシゲ)
    https://www.kindai.ac.jp/meikan/341-yonezawa-yasushige.html

    先端技術総合研究所
    https://www.kindai.ac.jp/bost/about/advanced-technology/

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    図2 PI(4,5)P2によるVSPとPTENの制御メカニズム