プレスリリース
上海恵風閣芸術品センター理事長 呉稚亮氏のインタビュー記事を 『人民日報海外版日本月刊』にて公開
自然の移ろいにたゆたう心、恵みの風は穏やかに
『人民日報海外版日本月刊』は、上海恵風閣芸術品センター理事長 呉稚亮氏のインタビュー記事を公開しました。
呉稚亮氏
江南の風光、三国は呉の都、西湖のほとり、十景の一つ、そこにそびえるは彼の建立した高殿。あらたに東風を巻き起こし、ひとり潮流を起こし、時代の声を記録する、彼は毅然と立つ中流の砥柱。外灘の風雲児、ビジネスの大海を進み、称賛を集める名品と紙上に取り沙汰される高名――その名は呉稚亮。世に響きわたる名前のほかに、実はもう一つ、あまり知られていないが彼自身いたく気に入っている肩書きがある。それは、上海恵風閣芸術品センター理事長という役職である。恵風閣が所蔵する清代の御窯磁器を中心とした「華麗なる光彩――中国磁器(清代)名品技芸展」は、10月5日から7日まで大阪・関西万博中国パビリオンにおいて初めてお披露目され、深い味わいを備えた文化の足跡を晴れの場に添える。来日した呉稚亮氏は、本誌編集部の招きに応じ、自身と重要文化財との縁について語ってくれた。
呉稚亮氏
■知己の文雅な集いから名高い芸術の共有へ
変化無窮なる銭塘江の流れ、そのそばに、代々農事に励みながら学を積む一家があった。呉稚亮氏は、父が所蔵する三百以上もの紫砂壺(顧景舟の作品を含む)に囲まれながら少年時代を過ごしている。その骨と血には、音もなく、しかし確実に、中国の伝統芸術に対する興味が融け込んでいたのであろう。自立して余力ができると、呉稚亮氏もおのずと収蔵の道を歩むこととなった。貴重な文物が流出するのを見るたびに胸を痛め、力の限りを尽くしてその収集に努めた。そうして産声を上げたのが恵風閣芸術品センターである。
長きにわたり、恵風閣は同好の知己たちによる古物の鑑定や清談、知識比べといった、文雅な集いという様相を呈してきた。
桃李もの言わざれども、下おのずから蹊を成す。恵風閣の名がしだいに世に知れ渡るようになると、文物界の重鎮にして、中国で初めて古代陶磁器の鑑定に関する専門書『明清磁器鑑定』を著した耿宝昌による題署、「流光溢彩」の四字が恵風閣に寄贈された。また、ロックフェラー・グループ第五代当主で、中国の伝統芸術に詳しいスティーブン・クラーク・ロックフェラー二世は、自身の造詣をいっそう深めるため恵風閣を訪れることに決めたという。ほかにも、イベントに参加するために中国を訪れていた駐中国ギリシャ大使やハンガリーの内務大臣らも、恵風閣の名を慕い、相前後して足を運んだ。さらには、台湾のある青銅器関連の専門家が、恵風閣が所蔵する百字以上の銘文が刻まれた青銅の大皿に夢中になり、あやうく自分の荷物を忘れてしまいそうになったというのも、ある意味では文物界隈における美談と言えよう。
竹灰色の麻のスーツに身を包み、まるで架空の物語の中から出てきた「おじさま」とでも言うべきその雰囲気は、いかにも文の道にすぐれた儒者でありながら、相手に親しみを感じさせる。その穏やかな表情からは、波瀾万丈をくぐり抜けてきた歳月の痕は微塵もうかがえない。「たまにふと夜中に目が覚めましてね、無性になでたり眺めたりしたくなって話しかけるんですよ」。愛する文物についてそう語るときの氏の眼差しは、一点の曇りもない赤子のようですらある。
数十年にわたって伝統芸術を愛玩してきた呉稚亮氏は、釉薬の色は民族の意識や美的感覚に関連するという点についても、ある種の独特な見解を持っている。「たとえば人々からたいへん人気のある天青色ですが、青は穏やかな海や清らかな河、国家や国民の安泰を表しています。また青は、真理の探究に明け暮れた宋代理学の色でもあります。それに清の宮廷は青磁器を用いて天壇で天を祭りましたし、プロレタリア大衆は常に『青天(清廉な官吏の比喩)』の存在を望んでいました。つまり、青というのは真にして純なるものの極みで、公平善良の象徴なのです」。
すでに喜寿を過ぎている呉稚亮氏であるが、自身の年齢に話題が及んでも嫌な顔一つすることはない。「たとえ陳摶(宋代の高名な道士)や彭祖(伝説上の長寿の仙人)のように生きられたとしても、悠久の歴史のなかで見れば、それすらも白駒が隙を過ぎるようなものです」。炯々たるまなこ、わずかに残る白髪、その手のなかで五千年の文明を指折り数え、その瞳のなかで三山五岳や長江・黄河を測ってきたのであろう。そして、その壮大な歴史絵巻は、いままさに最後段階に入った。「一国一城に値するような文物も、つまるところは空を流れる雲のようなもの。ものごとの移ろいにまかせて心を遊ばせるのです。大いに手放してこそ大いに得るというものでしょう。ただ、中国数千年の粋を凝縮したこれらの宝物ですから、やはりもっともふさわしい落ち着き先を探してあげなければなりません」。最適な落ち着き先、それは博物館への寄贈である。
所蔵品 その(3)
万寿尊
■大国の匠の精神を世界へ
17世紀中葉から18世紀末、清朝は康煕帝・雍正帝・乾隆帝という三代の英君によって全盛期を迎えた。辺境を鎮めて版図は安定し、社会は穏やかに発展していった。呉稚亮氏によると、磁器の形、紋様、工芸技術においても、この時期に新たな進展があったという。清三代の御窯磁器は、皇帝の指定した焼き方で製作され、そのうち一部の作品は皇帝自身がデザインにも関わった。つまり、東洋の帝国で積み上げられたもっとも権威ある文治、武功、学識、修養、そこにはそのすべてが体現されているのである。また、同時期の政治、外交、民生といった社会のさまざまな側面も反映されている。
前王朝時代と異なるのは、清三代の御窯磁器にはある種のゆったりとした美しさや、奇抜で艶やかなイメージが見て取れることである。これは、中国の陶磁器芸術の水準が入神の域に達した成果であるのみならず、先進的な材料を大胆に利用して近代文明の美を切り拓こうとした証である。清三代の御窯磁器がその身にまとう輝きは、いわば大国の威信であり、洋の東西を越えて響き合う文化の協奏曲といえる。
転心瓶は、雍正・乾隆年間に仕えた督窯官の唐英が乾隆帝の好みを忖度し、景徳鎮御窯に製作を命じたものである。胴は内外二層から成っており、外瓶には開口部がある。これをくるくる回すと、内瓶に描かれためでたい画や図案が走馬灯のように見える仕組みである。その工芸技術はきわめて複雑で、焼きの過程においてもサイズや窯の温度などについて厳しい条件が求められる。たとえベテランの陶工であっても、作品が上手くできあがる可能性はきわめて低い。そして転心瓶は、唐英が世を去るとともに、しだいに歴史の表舞台から姿を消していった。
したがって、転心瓶が流行した時期はわずか二百年あまり遡るだけであるが、いまでは世にも稀な逸品となってしまった。2021年の北京保利春季オークションに出品された一品で、呉稚亮氏が所蔵する洋彩軋道転心瓶とよく似た洋彩臙脂紅地軋道「有鳳来儀、百鳥朝鳳」図双螭耳転心瓶は、2億6565万元(約55億円)で落札されている。
所蔵品 その(2)
所蔵品 その(1)
■「共結来縁」をもう一度
日本では、実業家にして慈善家でもある出光佐三が創設した出光美術館や、貿易商の松岡清次郎が創設した松岡美術館に、それぞれを代表する栄えある収蔵品として清代御窯磁器がコレクションされている。しかし、その品格と規模において、康煕・雍正・乾隆の清朝三代にわたる御窯磁器をメインテーマとした国際的な展覧会は、本展覧会がほとんど初の壮挙であると言ってよい。
清三代の御窯磁器は、そもそもが当時の最高の工芸技術と素材を結集した集大成である。そしてこのたびの展覧会で日本に赴く100点近いコレクションは、古今に冠たる、世界の耳目を驚かせる逸品ぞろいである。そのなかには、貝殻のなかに修行の場を描くかのごとく、わずかな空間に森羅万象を映し出すような精密さを持った文房具もあれば、圧倒的なスケールをもって選りすぐられた大国の象徴たる文物もある。
たとえば、このたび出展される万寿尊は、景徳鎮の御窯から康煕帝の還暦を祝して納められた青花磁器であるが、その高さは76.5cm、975種類の字体で9999個ものめでたい漢字「寿」が描かれている。史料としての価値、美術品としての価値、さらには創意そのものの価値、そのいずれをとっても貴ぶべき逸品である。たった三か月のうちに二度も持ち主を代え、その際には価格が十倍に跳ね上がったというが、それとても宜なるかなと首肯せざるを得ない。
先に述べた転心瓶も、たしかに独創的かつ巧妙な造りであったが、器の形そのものは清の朝廷に始まるものではなく、宋の時代にまで遡ることができる。一方で、清朝三代の御窯磁器を工芸品の頂点へと押し上げた最大の原動力は、琺瑯彩磁器である。琺瑯彩磁器は康煕帝の時代、まず景徳鎮にて高温で白磁として製作され、それを内府に運んで絵師が彩色し、さらに造弁処(皇帝の身の回り品や宮殿の調度品を製作していた宮廷の工房)に持ち込まれて低温で焼き上げられた。つまり、琺瑯彩磁器こそは、その出自からして「宮廷御用達」だったのである。
西洋から伝わった琺瑯彩磁器の製作技法により、雍正・乾隆期の釉薬の色彩は、康煕帝時代のものより柔らかみを帯びたものとなり、いっそう鑑賞に堪えるようになった。このたび出品される珍品のなかには、高さ6cm、口径11cmからなる、雍正期の臙脂紅地琺瑯彩花蝶紋寿桃款宮碗がある。写実的で生気に富み、端正で美しい塗りを施された逸品である。さらには、やはり雍正期の碗で、撇口(器の口がラッパ状に開いたもの)、弧腹(器の胴がアーチ状の膨らみを持つもの)、圈足(器の底が環状に高くなった足を持つもの)の墨彩竹石詩意紋小碗があり、そこには詩が書きつけられている。これより見るに、雍正期の琺瑯彩磁器の芸術的特徴は、詩・書・画と陶磁器が渾然一体となっていた点にあることがわかる。ほかにも乾隆期の剔黄海水九竜紋天球瓶や、銅胎画琺瑯鳳紋執壺ひと組、青花纏枝蓮団寿双耳大扁壺など、随所に見られる工匠たちの創意工夫は枚挙にいとまがない。
本展覧会に並ぶ工芸品の数々は、中国文物交流センターによって鑑定、選別され、展示計画書が作成された。国文煊(北京)文化発展有限公司が運輸、検品、展示、撤収におよぶすべての業務を請け負っている。恵風閣が所蔵する逸品の公開は初めてのことで、それもいきなり国際的な大舞台において展示される。これにより、呉稚亮氏の三つの願いは、その大半が達成されたことになる。また、中国文物交流センター、中国国際貿易促進委員会、中国駐日本総領事館の支援のもと、本展覧会に関わる上海と大阪のチームは日夜苦心し、本展覧会に合わせて図録を刊行した。この図録もきわめて精巧な出来映えで、編集、版組み、用紙、インク、装幀の到る処に職人の技と思いが込められている。
唐招提寺第85代方丈である松浦俊海師は、この恵風閣の特別展開催にあたり、喜んで「共結来縁」の四字を揮毫された。そこには、人類共通の文化財を伝え、保護する、恵風閣への賛意が込められている。また師は、万博特別展の開幕式にも参加されるとの由である。ちなみに「共結来縁」とは、かの鑑真大師が六度目に日本へ渡った際に説いた偈の一句である。
なお、恵風閣特別展の評判を聞きつけた京都にある二つの美術館から、展示を延長してほしいという要望が呉稚亮氏に届けられた。しかし、これほどの重要文化財ともなると、国外への持ち出しには相応の制限がかかるもので、展示する場所や期間に関して規定を遵守しなければならない。そのため、美術館の責任者たちは、恵風閣の御窯磁器の再来日を熱望するにとどまった。京都の人々にとってこれはたしかに遺憾なことであるが、この一事をもってしても、恵風閣の収蔵品がいかに真(本物)・精(精緻)・稀(稀少)・絶(絶品)を兼ね備えた逸品ぞろいであるかを物語っており、業界における注目度の高さがうかがい知れるであろう。
所蔵品 その(4)
■取材後記
小文の脱稿を前にして、また一つ芸術愛好家たちを喜ばせるうれしい報せが舞い込んだ。大阪・関西万博での公開に先立ち、本展覧会に出展予定の作品のなかから、60点が東京の中国文化センターにてお披露目されるという。海外に住む芸術愛好家たちに捧げるこの特別展示は、同時に新中国成立76周年を記念して捧げられる祝儀でもある。
大阪・関西万博への出展、それは疑いもなく、これまで静かに野に潜んでいた恵風閣にとって重要な里程標である。ここに恵風閣はその第一歩を踏み出すことになる。爽やかに晴れた青空のもと、万物を慈しむ穏やかな恵みの風が、いま芸術的な趣を乗せて、日本、そして世界へと吹き渡ってゆくことであろう。